The King with Donkey Ears

ドラマ視聴素人の感想置き場。自分のために書いてます。

【ネタバレ】「おしん」流浪編の意義とは

おしん」流浪編の意義とは

おしん」流浪編は、放浪編とも呼び、
おしんが雄と共に自立を目指し、東京・山形(実家)・酒田(加賀屋)へと移り住む一編のことを指す。

大まかに言えば『自立編』とも呼ぶべきエピソードだが、
浩太の紹介で伊勢にたどり着き、
結果的にそこに根を下ろしたことを考えると、

流浪編(東京・山形実家・酒田加賀屋)
自立編(伊勢)

と分類しておいた方が語りやすいと思うので、
ここはあえて流浪編と呼ばせてもらうことにする。

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さて、流浪編は個人的に、佐賀編と同じぐらい見ているのが辛い。
悲しい。心に刺さる。

加賀屋を再び訪れて飯屋を始めてからは
そうでもないのだが、
それまでがとにかく辛いのだ。

佐賀編を耐えられた人ならば、
とるに足らないものだと思っていたのだけど、
いざ見てみると「うわぁ」と目をおおいたくなる。

いったい、何がそんなに辛いというのだろうか。

それは、髪結い・健さん・実家と
佐賀から出て、雄と共に自立するために
頼りにしていたことが
ことごとく潰されたからだと思う。

右手はほぼ治っていても、
髪結いができるまでに回復はしてなかったし、
健さんには既に内縁の妻のような存在がいた。
そして実家では居場所はなかった。

一瞬希望をちらつかせて、
それをすぐ叩き潰されたから、
見ていて悲しかったのだと思う。


そして、おしん本人もまた、
佐賀に行く前と佐賀を出た後で
微妙に変わってしまったように見えたから、
とても歯がゆく感じた。

今回は、流浪編でのおしんの苦闘を
私個人の備忘録としてまとめておきたい。

変わらないものと変わってしまったものへの直面


佐賀編を乗り越え流浪編に突入したとき、
一視聴者として、私は心の底から安堵した。

それほど佐賀編は辛く、厳しく、
そして異質だったからである。

劇中ではたった1年ではあったが、
見ている側からはいつまで続くのかわからない
閉塞感と絶望感があって、
永遠に続くのではないかとすら思えた。

だから髪結いの師匠・たかが
1年前と同じように髪結いの店をやり、
1年前と同じような笑顔でおしんを出迎えてくれたとき、
張りつめていた糸がふっとゆるみ、
涙がじんわりと出た。

たかのあたたかさは、
1年前となにも変わっていなかったからだ。


しかし、なにも変わらないたかとは違い、
竜三と一緒に佐賀に身を寄せてから、
佐賀を雄と共に脱出するまでに、
おしんはいろんなものが変わってしまった。

身体的にも、精神的にも、
佐賀での地獄は、おしんを1年前とは異なる性質へと
変化させていた。

彼女の右手は、怪我によって
髪結いができなくなっていた。

自分の髪を結ったり、裁縫ぐらいは
どん底期から回復してできるようになったが、
髪結いのような、細やかな作業ができなくなってしまったのである。


そして、佐賀での辛い経験は、身体だけでなく
おしんの心をも傷つけていた。

おしんが佐賀での辛かったことを吐露し、
堰を切ったように嗚咽したシーンは、
とても悲しくて、辛かった。

佐賀編の辛さとは、まだ異なった趣の
辛さだった。

佐賀編は全編ほぼ辛いシーンばかりなので、
おしん自身も、視聴者も少し麻痺した部分もあったと思う。

おしんは辛さから目を背けるために、
自分のことを自虐的に『厄介者』だと表現していたし、
子供たちからごくつぶしと言われても、
食べ物で明確に区別されていても、
気にしていないような表情をしていた。

でも、たかの優しさに触れたことで、
佐賀でのそんな生活が如何に極限状態で、辛いものであったかを引き立たせた。

佐賀での生活は、地獄だったと、
おしんにも視聴者にも改めて痛感させたのである。

だから辛いのだ。

おしんにとっては、佐賀での生活は
矯正施設に入れられたようなもので、

おしん本人は自分らしくいようとしていても、
少しずつ中身を変えられてしまっていたのがわかるから。

髪結いが出来ないと悟ったときの
おしんとたかのシーンも辛かった。

たかが必死におしんを励ましながら、
おしんの右手をさするところなんか、
見ていられない。

佐賀で首に大ケガを負い、
右手が不自由になってから、
料理も裁縫もできず、失敗ばかりして、
あのときのおしんのいたたまれなさを少し思い出した。

おしんが何もできなくても、
たかは責めたりするような人ではないのは
十分分かっている。

しかし、佐賀でのトラウマが
おしんを臆病にさせていたと思う。

役に立たない人間は他人に迷惑なのだ。

どこか自分で居場所を見つけなければならない。


佐賀での矯正生活を経て、
無意識のうちにそんな強迫観念が
おしんの心の奥に植え付けられてしまったような気がした。

かつて強引に加賀屋に奉公を志願し居座ったり、
髪結いの弟子になるために勝手に火の番をしたり、
自分から居場所を作ろうとした、
あの図太さがすっかり消えてしまっていたのだ。


髪結いができないから、もうお師匠さんのもとにいては迷惑だと一線を引くのはとても早かったし、
それはたか本人でなくても、
なんとなく寂しい気持ちになる。


おしんがとにかく「自立」を望んだのは、
竜三と雄と3人で暮らすための目処をつけるためだけではなく、
おしん本人も自分の臆病さに気づいていて、
かつての自分の能動性を取り戻したかったからではないか。


おしんは、流浪編で「自分らしさ」と「居場所」を
探すことになる。

自分らしさと居場所を探すための旅

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他人に迷惑をかけてはいけない。

佐賀での生活によりその言葉が
脳裏に刻まれたおしんにとって、
居場所を見つけるのは困難だった。


健さんどんどん焼き屋をやらないかと提案し、
一時それで食べていけると思っても、
健さんの配偶者からの訴えに心を痛めた。

また、健さんおしんへの思いも知り、
そのことが、よりおしんを苦しめたのだ。

視聴者からしたら、
健さんの気持ちは佐賀に行く前からバレバレだったが、

配偶者がいてもなお、大金をはたいて惚れた女に
店を持たせるという行為は、到底看過できるものではなかったし、
おしんにとっては「いい人」だった健さんの別の一面を見て、
おしんが「ここに自分の居場所はない」と悟っても仕方なかった。

山形の実家にもまた、おしんの居場所はなかった。

庄治・とら夫婦と母・ふじの仲は
想像していた以上に冷えきっていたし、
一見悪い父親でしかなかった
作造の存在の重要さを痛感した。

また、おしんのためにと、ふじが行う行動全てが
とらを苛立たせ、さらにおしんを苦しめた。

自分がいることで、ふじがますます
兄夫婦と折り合いが悪くなると思ったら、
今のおしんには、到底実家に図太く居座ることができるはずもない。

雄も目を離したらとらに折檻されるとあれば、
山形の実家は、むしろ安住からは一番遠い地だった。

ここまで、見ていてなんとも辛かった。

あんなに威勢がよかったおしんが、
どこか遠慮がちで、
傷つくことに怯えていたように感じたからだ。



そんなおしんが自分らしさを取り戻すきっかけとなったのは、
加賀屋で加代が「商売をやらないか」と誘ったことだと思う。

このときの加代は本当にかっこよくて、
なんていい人なんだ、と感動さえした。


戸惑うおしんの手を引いて、空き家となった店に
走り出すシーンは名シーンのひとつだ。
ものすごく好きなシーンなのである。


飯屋開店初日、客が一人も来ずに
おしんが自信喪失したときも、
加代は手をさしのべなかった。


きっと、おしんは自分で考えて打開策を見つけるだろうからと確信していたのだろう。

それでこそ、私が知っているおしんなんだから、と。

加代の思った通り、おしんは自分から行動した。
チラシを配ったり、おにぎりを無料で配ったりして、
とにかく飯屋に客が来るように奔走した。


おしんの努力によって飯屋に少しずつお客が入るようになって、
おしんと加代が毎日協力しあって店を回している姿は、
少女編から見ている者にとっては、
『この日々が一生続けばいいのに』と、
感慨深い気持ちになったものだ。

そのぐらい、おしんも加代もイキイキしていた。

姿形は大人になっても、誰かの妻になっていても、
おしんと加代の関係は、少女時代のあのときから
何も変わらないかたい信頼と友情で結ばれていた。


飯屋に浩太が訪れて以降、
加代と浩太はあの頃のことを回顧し、
いい思い出として昇華できたことも良かったし、


浩太の行動をきっかけに、竜三との繋がりも復活し、
佐賀で傷ついたおしんの心が、
かつて子供の頃奉公していた酒田の地で、
おしんらしさを少しずつ取り戻していったのがよかった。

やがて、浩太の提案で飯屋をたたみ、
伊勢で魚の行商をすると決めたおしん

これは、「加賀屋の人たちに迷惑をかけるから」でなく
「加代と政男の仲がうまくいくように」という
おしんの気持ちからだ。

臆病からではなく、他人の幸せを考えての、
おしんの能動的な判断であった。
(おしんがこのまま酒田に残っていたら、と加賀屋の未来のifを考えてしまうが)

酒田を発つ前夜の、
おしん・加代・浩太のお別れ会なるシーンもまた、
青春編での全ての始まりを思うととても胸にくるものがあった。

思えば、おしんと加代が浩太と出会ってから、
運命の歯車はまわりはじめた。

あのころと想像していた未来とは違うが、
それでも出会ったことが宿命だったんだと、
しみじみするシーンである。

また、この3人の今後を知ったあと、再びこのシーンを見ると、
3人が皆長生きして、いつか年寄りとなった3人が集まり
昔を懐かしむ未来があったらよかったのに、
と切なくなったのは、言うまでもない。

夫・竜三の流浪編

流浪していたのは、おしんだけではない。
竜三もまた、おしんが佐賀を出ていってから、
心があちこちに流浪していたのだ。


おしんを守れなかったこと、
なにもしてやれなかったことは、
竜三の男としての自信を著しく喪失させた。

おしんからの手紙は一向に届かず、
このままおしんを諦めるべきか、手紙が届くのを信じて待つべきか、
竜三の心はゆらゆらと不安定を極めた。
(裏でお清が破り捨てていたとも知らずに)


浩太の計らいがきっかけで
おしんと連絡がついてからも
頑なに合流しようとしなかったのは、
甲斐性のない自分に、自信がなかったからだろう。

おしんと連絡がついてからも、
竜三は頑なに伊勢には行かない、佐賀の干拓が成功するまで待っていてくれと書き続けた。

おしんが家族の「今」を大事にしたいのに対し、
竜三は雄の「遠い未来」のために、
土地を残してやりたかったのだ。

それこそが父親の役目だと、
竜三は本気で信じていた。


「今」を大切にしたいおしんも、
「未来」を保証してやりたい竜三も
ベクトルが違うだけで親としての思いは同じだ。


しかし、竜三にはどこか「男の意地」のためという部分もあったし、本人もそれを自覚していた。

竜三には、なにか自分の自信を復活させるための
拠り所が必要だった。
それが、佐賀の干拓だったのである。

一方で、伊勢に行ってまた家族3人で暮らしたいという気持ちもどこかにあって、
竜三の心は絶えず揺れ動いていた。

自分の土地を持つことが男なのか、
それともおしんが成功させた魚屋を
手伝うのが男なのか。


最終的に、竜三は後者を選んだ。


遠い未来より現在、
自分の男としての自信より目先の家族の幸せこそが
大切だと気づいたのだ。


お互いに流浪していたおしんと竜三が
伊勢の海岸で再会するシーンは、
このドラマでも屈指の名シーンのひとつだと思うし、

おしんが雄と共に魚の行商をしているのを
ひそかに竜三が涙を流しながら見ているシーンは、
竜三の心が決まったのを感じさせて、
とてつもなく好きでたまらないシーンである。
何十回見たか覚えていないぐらいだ。

それぐらい、良いシーンだと思う。


そして、二人は再び家族3人で暮らすという
共通の夢を果たすことになった。

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おしんと竜三がたどり着いた「自立」とは

第176回のおしんとひさの場面で、
こんな台詞がある。



「人間はな、人の厄介にならなあかんときがある。
その代わり、あんたやてまた人の面倒見なあかん時も来る。
世の中持ちつ持たれつや。それでええのや。
はよあんたも人の面倒見るようにならないかんな!」



この場面は個人的にかなり印象的で、
この言葉でやっとおしんが佐賀編で刻み込まれた

「他人に迷惑をかけてはいけない」

という呪縛から完全に解き放たれたように思う。

どこか涙をにじませたおしんの表情が、
それを物語っていた。
とてもジーンと来る場面なのである。


また、第177回では


「おかみさんだけじゃない、加賀屋の大奥様、髪結いのお師匠さん、それからカフェのおねえさんたち、源じい、的屋の健さん。私、みんなのおかげでここまで生きてこられた」



とも言っていた。

「自立」とは、依存できる場所を増やすことである。
https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_56_interview.html


この有名な言葉が示す通り、
真の自立とは、頼れる人、自分らしくいられる場所を増やすということだと思う。

困ったときは素直に誰かを頼り、

また、誰かが困ったときは面倒を見る。


それが真の「自立」だと、
おしんと竜三は学んだのだった。

ひさの言うとおり、おしんと竜三は
希望や初子を引き取ったり戦争中も庄治に援助したりするのだが、
それは太平洋戦争編で詳しく触れることにする。

さいごに

東京編と伊勢編、どちらがおしんにとって
幸せだったのだろうと考えたとき、
私としては、甲乙つけがたいと思っていて、

というのも、東京編は華やかで自由にあふれた
立身出世物語であるのに対し、

伊勢編はやっと手に入れたささやかな幸せを
大切にかき集め、なくさないように頑張る話だからである。

種類が違うのだ。

伊勢編は、関東大震災と佐賀編でどん底を経験して、
ほぼすべてを失ってからの幸せだから、
おしんはその価値をより分かっているし、
とにかく守ろうと必死になっている。

だから、髪結いとして成功し、竜三と結婚し、
子供服の仕事で成功した東京でのあの生活も
幸せそのものだっただろうが、
震災によって一度失っただけに、伊勢編の方が
そのありがたみを理解して、
より幸せを慈しんだだろう。

それに、夫婦が揃って一生懸命働く姿を
子供に見せたい、というおしんの夢がかなったわけで、
伊勢でおしんと竜三が魚屋を始めた数年間は
どんなに辛くても幸せしかなかっただろうと推測できる。
(その生活はほぼ半分以上すっ飛ばされたけど)

個人的には、第178回が最終回でも全然構わなかったが、
それでは橋田壽賀子的にはつまらないのだろう。


そう、長い流浪を経て、
おしんがやっと幸せを手に入れた自立編も
結局は太平洋戦争編までの
序章にしか過ぎないのであった…。





田中裕子さんをはじめとする、
役者さんたちの演技には文句のつけようがない。


大奥様の死に様は、湿っぽくならず
その器の大きな人柄がにじみ出ているような最期だったし、


第161回ではおしんがかつて健さんに習った口上を披露、ヤクザ者に怯まない度胸がかっこよかったし
(田中裕子さん主演で『極道の妻たち』見たかったなぁ!)


第166回では恒子さんが竜三に
ことごとく清に破られたおしんからの手紙の裏貼りを渡すという大ファインプレーだった。
(おしんと竜三にとって恒子さんは大恩人ではないのか?毎年御礼は送っているのか?)


また、流浪編では、それまでなんとなく浮いていた浩太さんが
やっと馴染んで違和感がなくなって来たように思う。
やっと浩太の良さがにじみ出てきたというか。

何度も言うが、おしん・加代・浩太の別れのシーンは
なんとも感慨深い気持ちにさせられた。

本当の意味で、あの3人の
青春からの訣別を見せられたようで、
胸がいっぱいになったのである。



そしてフリーダム雄坊、
君はフリーダム過ぎるだろう!


おしん!竜三と雄とまた3人で暮らしたいという
執念、すごすぎるだろ!


清、期待を裏切らなさすぎるだろ!
ブレなさにあっぱれ!
でも手紙シーンは泣けた!




と、何だかんだで流浪編(自立編?)も面白い出来でした。









流浪編は、間接的に
おしんと竜三があのとき佐賀に身を寄せた選択が
ほぼ正しかったことも示している。

あのとき、選択肢は

東京に残るか
山形の実家に身を寄せるか
佐賀の実家に身を寄せるか

の三択であった。

しかし、東京では借金取りに追われることは
ほぼ確定で、家も仕事も財産もなくしてしまった。

髪結いの師匠・たかも、
りつの地元に身を寄せていたとあっては
赤子を抱えたおしんと竜三が
また一から東京で出直すのは
危険であったと推測できる。

健さんが当時から内縁の妻がいたかは不明だが、
どちらにしても、全面的に頼りにすることはできなかったであろう。


山形の実家もまた、
雄を育てるには適さない場所だ。

食べるものに困るし、
兄夫婦の子供たちと区別され、
お尻まで叩かれたりする。
これでは、おしんも竜三も雄も
ストレスを抱えてしまう。

そう考えると、
地主である竜三の実家で
しばし回復を待つという判断は
間違ってはいなかったと私は思う。

おしんとお清があそこまで価値観が合わない
頑固者同士だったというのが想定外だった。