The King with Donkey Ears

ドラマ視聴素人の感想置き場。自分のために書いてます。

「おしん」竜三の自決に関して思ったこと

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おしん」太平洋戦争編を初めて見たとき、
私はなぜ竜三が自ら命を絶ったのか、
そしておしんがなぜ彼のことを「立派」だと言ったのか理解できませんでした。

やっと戦争が終わって、これから家族で幸せに暮らせるのに、妻や子供たちを残して一人死んだ竜三のことが、
無責任で身勝手のように思えたのです。
そして、遺書に書かれた「悔いる気持ちはない」という言葉にも、ずっとモヤモヤしていました。


しかし、もう一度初めから見返してみて、
そして終戦後に復員してきた仁とおしんのやりとりや、
再会した浩太との会話で、
なぜ竜三が死を選んだのか、
なぜおしんは「立派」だと言ったのか、
そして竜三という人間の人となりを理解することができました。
それと同時に、橋田壽賀子氏が
太平洋戦争編で伝えたかったものが、
ほんの一部分ではありますが
掴めた気になりました。


竜三が終戦後自決の道を選んだ理由は
「戦争に協力した責任」のためです。
次兄であり、職業軍人でもある
亀次郎の勧めもあり、
竜三は軍に魚を納入する仕事へと転職し、
最後には軍関連の衣服を取り扱う
縫製工場のトップにまで昇りつめました。
それだけではなく、隣組組長として
お上からの戦争協力の通達や具体的な活動を取り仕切ってきました。
そのなかには、近所の有望な若者に航空隊に入るよう提案・説得することも含まれていました。

私は、この「近所の若者を戦争に送り込んだ」ことが竜三を自決の道へと導いたと思っています。

なぜなら、竜三は
「息子を戦争で亡くした親」でもあるからです。
長男の雄の戦士広報を読んだ直後の
竜三の憔悴ぶりはすさまじく、
遺影に向かって語りかけるさまは、
既に自身も敵兵と戦い、
死を覚悟するようなものでした。


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雄の戦死を信じないおしんに、
雄が生まれてから今までの思い出を
独り言のように呟く竜三は、
まさに息子の死を悼む親でした。

息子の死を悼むと同時に、彼の頭のなかでは、
自分が説得し戦地に送り込み、消えた若者の命の存在が浮かんでいたに違いありません。
そして、亡くなった息子の命を悼む親の気持ちも、竜三はこれ以上なく理解していたことでしょう。

彼は、その事実に目を背け、何でもないように生きていけるほど非情ではありません。
ズルさやふてぶてしさとは対極にあるような人間です。

たとえ天皇陛下からの命令、
お上からの指令の通り実行しただけであっても、「無視することもできたのにしなかったから」と、自分の戦争責任を認識し、自決をもってその罪を償うという竜三の考えは、真面目で責任感のある生きるのに不器用な彼の性格そのものでした。


また、戦争に協力し続けたことを
「私はひとつの時代を精一杯生きた。悔いはない」と言ったことも、今では分かる気がします。

それは、「おしん」という作品全体のテーマである「自分らしく生きる」「自分の信じた道を生きる」に当てはまるからです。
竜三は、自分の信じた道を精一杯生きたから
悔いはないと思えたのです。

それは、戦争中自分の思うように生きられなかったおしんとは正反対でした。
俊作あんちゃんから戦争の恐ろしさを教えられ、おしん一人だけでも戦争に反対するよう言われていたのに出来なかった。

おしんは、家族と暮らしのために
自分の信念を曲げ、戦争中ずっと
妥協して生きてきたのです。

その結果、竜三と雄を失い、
おしんは戦争を憎んだと同時に、
俊作の言うとおり出来なかった自分、
戦争のおかげで豊かに暮らしていたのに
今になって戦争を恨む自分の身勝手さや醜さを嫌悪したのだと思います。

だから、一貫して「日本の勝利のために働く」
信念のもと精一杯生きた竜三のことを
立派だと言い、「竜三の妻でいられたことを誇りに思う」と伊勢に来た清に言えた。

なぜなら、竜三の生き方は
「自分の信じた道を生きる」という、
おしんがずっと貫きたかった生き方だったから。

竜三のその不器用なまっすぐさが
おしんにとっては、愛おしかったのでしょう。

その時代をひとつの信念のもと精一杯生きたこと、これは決して後から悔いることでも、
他人から否定されることでもありません。
それがたとえ戦争中であっても、
当時の人たちは戦争の勝敗にも国籍にも関係なく、必死に生きていたのです。

脚本を担当している橋田壽賀子氏は、
当時子供心に戦争中は戦争への協力を当然のものとし、戦争を賛美していた大人たちが、終戦後には掌を返したように平和・反戦を掲げ、
「この戦争は間違っていた」と否定し始めたことに対して不信感をもったと言います。
いい大人が、そんな都合のいい極端な変貌をしていいのかと。

雄のように、戦地で非業の死を遂げた若者たちの存在も戦争の悲劇ですが、竜三や仁のように
ひとつの信念をまるで間違っていたことのように全否定されてしまうのも悲劇であると思います。
おしんが仁に「何かひとつのことに精一杯打ち込むということは素晴らしいこと。いい思い出にしていかなきゃ」と諭したのも、壽賀子氏による「生き残ってしまった者たち」へのメッセージで、
私はこの考えに深く敬服しました。



また、おしん宛に書いた遺書に、
妻に対して申し訳ないという言葉ひとつなかったのも、初見であった当時の自分には
どうしても納得できず、
なんて自分勝手な男だと憤りさえ覚えました。
いくら戦争に協力し罪もない人たちを
不幸に陥れてしまったとはいえ、
家族を残して自分は先に死んでしまうのは
無責任すぎではないか。

だから、初子の
「父さん勝手すぎる。残された者がどんな気持ちになるかも考えないで」という批判や
伊勢に来た清の「お前は意気地無したい」という悲痛な叫びの方に共感しました。
しかし、おしん
「竜三は立派だと思っています」と
目をそらさず反論した姿を見て、
ふとおしんと竜三のこれまでの歩みに
思いを馳せたのです。

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思えば、二人の夫婦生活は、
相談する前に一人で勝手に決めたり行動したりで、最終的にどちらかが折れ、
相手の気持ちに寄り添うというものでした。

そして今回も、おしんが竜三の信念と決断に徹底して寄り添います。残された妻の立場としては
「生きる選択をしてほしかった」に違いないのに。

それは、前述したようにおしん自身ができなかった
「自分が信じた道を精一杯生きる」という信念を
竜三が貫き通したことに対して、
素直に立派だと思ったからでもあるし、
何より20何年連れ添った妻として、
誰よりも夫の気持ちを理解することができたからではないでしょうか。

竜三も、おしんが自分の気持ちを
理解してくれると確信していたから、
遺書に謝罪の言葉ひとつも書き記さなかったのではないか、と思っています。
家柄も価値観も違う二人は、激動の時代に出会い、さまざまな苦難にのみ込まれながら共に生きてきました。
楽しいことや辛いことも共有しあって、
たまに傷つけあいながらも寄り添って生きてきた二人には、きっと二人以外には踏み込めない領域と、二人しか理解できない何かがあったのです。

おしんと竜三のこれまでの歩みと、
竜三の死に触れ、夫婦というものの因果と奥深さに心を揺さぶられ、橋田壽賀子氏の夫婦というものに対しての独特の視点にもうなりました。

終戦後、責任を感じて自決することを美化しているのではなく、しかし否定もしない。
壽賀子が批判したのは「戦争中は愛国だとか戦争を賛美していたのに、終戦後には何事もなかったかのように反戦や平和を主張する、責任もとらず反省もしない人々」それだけでした。

とはいえ、私は竜三の死に納得はしていないし、
おしんや仁のようなふてぶてしい生き方を否定するわけではありません。
むしろ、竜三にはもっとふてぶてしく
長生きしてほしかった。
おしんを振り回し、困らせながらもお互いが老いるまで最期まで連れ添ってほしかったです。
それぐらい、この夫婦が
私は大好きだったのでしょうね。

竜三が戦争に協力した責任を取って自決したことは
人間としては立派だと思いますが、夫として、父親としてはどうなのでしょう。
息子の戦死に動揺する妻と子供を残してまで
「戦争に協力した責任」を自らの死をもって
償う必要があったのか。
国家が命令してやらせていたことなのに、
一個人、しかも民間人が責任をとる必要があったのか。
それもまた、生きるのに不器用な純粋さを持つ竜三ならではのジレンマです。
そんな性質を持つ彼だからこそ、
おしんは20何年夫婦としてやってこられたのですが、
初子や清の「勝手」「卑怯」「意気地無し」という言葉も、間違っていないと思います。
(雄や仁を殺してしまったから、父親としても責任をとったということなのでしょう)


勝手だな、と感じるのは竜三の死後に
家のことでトラブルがあって
「竜三、死ぬんだったらちゃんと名義とか権利とか滞りなくしとけよ!」という一種の呆れがあるからかも知れませんね。
ある意味竜三らしくて、その詰めの甘さに笑ってしまいました。


竜三の死を通して、おしんと清が再び対峙し、
お互いの感情を吐露するシーンは、
個人的に「おしん」一番の名シーンだと思っていて、何度見てもグッと来ます。
田中裕子さんと高森和子さんの凄みのある演技のぶつかり合いの見ごたえといったら。

このシーンを見れただけでも、
佐賀編を完走した甲斐があったというものですね。


219回以降もこの作品は止まらず進み続けますが、
私にとって219回(と225回)は
ひとつの区切りだな、と感じました。