The King with Donkey Ears

ドラマ視聴素人の感想置き場。自分のために書いてます。

真昼の月に

生命の終わりは、いつも心に大きな穴を開けるものです。
それが身近な家族はもちろん、
夏の終わりに道路に落ちている蝉の死骸を見ても、
どこか切ない、静かに弔いたい、そんな無常感が生まれることもあります。

彼の死もまた、私にとっては心に大きな動揺をもたらし、今も彼のことを思うと
遠い目をして胸を痛めます。
私は彼の熱烈なファンというわけではないのに、です。

この数日間、その理由を
ずっと考え続けてきました。
なぜ、赤の他人の自分が、彼の死がこんなにも辛く、そして怖いのか。

それはきっと、「予期せぬこと」だったからではないでしょうか。
そして、彼の死に接して、
人間の儚さや弱さ、醜さを目の当たりにしてしまったから。

私は彼のことを「恵まれた」側の人間で、勝手に彼の未来は華やかなものだと思っていたのです。
恵まれた容姿、芸能人としての才能、すべてを持っている、将来が約束された人生だと。

妬む気持ちはありません。
彼は、よく知らない一視聴者の自分が
たまに目にする程度でも、
一生懸命で真面目な人柄だということは伝わってきました。
だから、嫌いだと思ったことは一度もありません。
でも、彼が死んだとの一報を知るまで、私は彼が
私や無数の人たちと同じく、
心を持った一人の人間であるということを忘れていたのです。

だから彼の死は「予期せぬこと」でした。
悲しみや辛さに加えて、無常感や恐怖さえ感じました。

彼のような一見恵まれた人間でも、
ある日突然死んでしまう。
多くの人を悲しませて消えてしまう。

なぜ?なぜ?なぜこんなことになった?
疑問符で頭がいっぱいになりました。

考えた末の自殺なのか、突発的なものなのか、
それとも事故か。
真相は彼しか知りません。
せめて、今彼の魂が楽になれたことを願い、
弔うしか私にできることはありません。

そして、彼の死に接することで、
いろんなことを考えました。 

人にとっての幸せや不幸に貴賤はないこと、
その人にしかわからない痛みがあるということ、自分の人生すら省みて、この数日間過ごしてきました。

彼らの死を利用して、自分の主義主張をアピールする自己顕示欲であふれた連中、
色んなことを詮索し、あることないことかきたてるマスコミ、
全てが不快感の塊で、あまりにも彼のことを思いやってなくて、疲れてしまいました。
全く無関係である私ですらそうなのだから、
近しい関係である知人や家族は
いかほど苦痛に感じているか、そう思うと辛くて仕方ありません。

無常感や恐怖は 彼の突然の死そのものだけではなく、彼の死などそっちのけで、自分の都合のいいストーリーを構築し、きめつけて、思い込んで、自己顕示欲を満たすために彼を利用するような、そんな人間の怖さにも感じたのです。
同じ命、同じ人間なのに。


でも、私も他人のことはどうこう言えません。
彼の死を通じて自分の人生について省みることは、
彼を利用していることにはならないのでしょうか。
いつか近い日に彼の死の痛みが薄れて、
何かで笑ったり、誰かを蔑んだり、
そんな人間に戻ってしまう自分は、
他人のことを糾弾できる資格があるのでしょうか。

でも、真人間のままでは生きていけません。
人はどこか鈍感さを持っていないと生きていけない動物だと思っていて、
ずっと痛みを意識して心の中に持ち続けたまま、過ごしてゆくことはできないのです。

これから私は、鈍感で残酷な日常に戻りたいと思います。
ただ、忘れたくないのは、自分が無力だということ、正しいとは限らないということ、強くないということ。
何色にも染まらずに、素直に生きていきたい。
自分の意志は「自分の意志」として持っていきたい。
人の幸せを喜び、不幸を悲しむことのできるそんな人間でいたいと思っています。
他人の痛みはどうあがいたって100%はわからない、ならば、せめて自分が受けた痛みを相手に与えないようにしたいです。

何のまとまりもない支離滅裂な文になってしまいました。

死んでいった人たちのことをたまに思い出して、
懐かしむことが、残された者のすべきことだと思っています。
そのために、身体も頭も心も、健康を維持していかなくてはなりませんね。






正直、後追い自殺をする人の気持ちが
なんとなくわかってしまった気がします。

美味しいものを食べたり、面白いものを見ていたら幸せになれるやっすい価値観の私なので、
まだまだ死ぬ予定はありませんけど。勇気もないし。